松江の茶の湯文化
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抹茶の歩み政治と結びついた格式高い飲み物
抹茶はそもそもただの飲み物ではなく、大昔は薬として使われてきました。中国から伝わった茶の葉は、身体を癒す「薬草」として扱われ、特に貴族や武士階級が健康維持や精神安定のために摂取していました。こうして抹茶は、健康と密接に結びついていたのです。
さらに、抹茶は政治の場とも深い関わりを持っていました。戦国時代から江戸時代にかけて、抹茶を飲み交わすことは、単なる食事の一環ではなく、武士たちが密会し、政治的な議論や同盟を交わす重要な場でもありました。茶室で抹茶をともにすることは、信頼の証として位置づけられ、その作法は徐々に形式化されていきました。その名残としてわかりやすいのが濃茶(抹茶の入れ方)。回し飲みをする濃茶は、「同じ盃を交わす」契約の証だったという背景があります。
抹茶が「茶道」という堅苦しい儀式へと発展していった要因には、武士階級がその文化を独占したこともあります。「薬」であった抹茶が庶民に広まり活力にみなぎってしまうことで、民が反乱や一揆を起こすことを恐れたのです。
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不昧公と
松江の茶の湯
裏に隠れた庶民の文化
松江藩の藩主であり、茶人として名高い松平治郷(不昧公)は、茶の湯文化を大いに愛し、その普及に努めたとされています。しかし、ここで「広めた」と言うのは少し語弊があります。というのも、不昧公が広めたのは武士階級や知識人層の間での茶道文化であり、庶民にまで抹茶文化を広めたわけではありません。
一方、庶民はというと、抹茶を隠れて飲んで楽しんでいたという背景があるとされています。抹茶がかつて薬として扱われ、特に上流階級に限定されていたことから、庶民が気軽に飲むことは規制されていました。しかし、その規制の中でも、茶の魅力に引かれた庶民たちは、自分たちなりに楽しみ方を見つけ、隠れた文化として抹茶を味わっていたようです。
そのため松江では、庶民の間では作法にとらわれない抹茶の飲み方が自然に定着していきました。島根の至るところに「隠れ茶室」が残っているのも、そのためだといわれています。抹茶の堅苦しいイメージとは異なり、現在でも私たちが抹茶を自由に楽しめるのは、こうした庶民の知恵と工夫が背景にあるのです。
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